2017年7月10日月曜日

喪の仕事。

献杯。

正直、こんな日が来るのは当分先だと、勝手に勝手にそう思っていた。
全然実感がわかなくて、言い様の無い喪失感に、ただただ戸惑う時間が過ぎた。
幸い、同じ思いの友人が居たことで、彼女と一緒にお通夜に参列させてもらった。
予想はしていていたが、ものすごい数の人が集まっていた。
そういう人だった。
身体も大きかったけど、身体以上の心と器がでかい人。
たくさんの人を惹きつけてやまない、広島で誰か男を推薦しろと言われたら、迷わず彼を推薦するだろう。そんな人だった。
ほんとうに、ほんとうにたくさんの人が集まっていた。

彼の存在自体はずいぶん前から知っていた。彼のバーにお酒を飲みに行ったり、「バーの2階で父と暮らせばの朗読会をやるから観に行こう」と誘われて行ったり。
演劇が好きな人で、わたしの企画する芝居をよく観に来てくれていた。烏丸ストロークロックを観に来てくれたあと、すごくよかったという話を、経営するスワロウテイルや海の家の波輝カフェでいろんな方にしていてくれたらしく、廻り回って舞台に関わっていた当事者の耳に届くことすらあった。
そういう話を聞くと、その舞台に出ている誰の友人でもなかった彼が、ただ観に行った舞台が面白かったことを時が過ぎても色んな人にしてくれていることに、なんだかすごく勇気づけられた。
長崎のF's Companyの「マチクイの諷」の公演を広島でやる時、長年毎月6日に原爆の語り部を開いている彼に、「わたしたちの世代で、原爆を考えるシンポジウムをやりたい」とパネリストの打診をしたのが、色々がっつり話すきっかけだった。
語り部の会が100回目を迎える、少し前くらいだったろうか。
実は、彼と話す時わたしはいつも少し緊張していた。
あまりに大きな人だったので、わたしの小物ぶりに呆れられやしないかちっぽけな怯えみみたないものと、気圧されてしまうような、そんな緊張を覚えていた。
もちろん、彼はそんなことはおかまないナシ、てか、そんなしょうもないことを気にしている事自体ばかばかしい、と思わせてくれるようなパワーを持っていた。
あれから毎月6日は、他の仕事が入らない限り語り部の会に参加するようになった。
継続だけが力、が理念のわたしはいつもなにかと必死こいてるけど、彼は飄々と、やり始めたとことを継続し続けていて、そういうとこをすごくリスペクトしていた。
これといった、ドラマチックな理由があるわけではなかったが、その場に居合わせ、被爆体験を聞くことをし続けた。
うまく言葉にできないけど、その積み重ねが、原爆を演劇で伝えていく方法を模索し始める糸口に繋がって行った様に思う。
同時に、県外から役者や劇作家が来たときは、彼のバーに連れて行くようになった。何故か大体、彼と話すより、居合わせたお客さんとひたすらしゃべる事の方が多かった。お客さんと話して盛り上がるうち、舞台の情宣に行ったのに、ウォシュレットの起源について熱く語る人や、世の中の二世について熱く語る人たちとアホみたい泥酔したこともあった。
スワロウテイルはそんなバーだった。

どんなに頑張っても「悲しみを乗り越える」なんてことは出来ない。そもそも乗り越えることなんて必要じゃないと思っている。ただ、うまくそいつと同居して行く方法を考えるだけだ。
そのために喪の仕事をする。
仕事量は関係によって異なるから、もっと近しい方々のそれに比べれば、わたしの仕事量なんてさほど大したことないはずだ。
紛らわせたりせず向き合い、己のやり方で己の仕事を全うしよう、と、わたしは友人と通夜に参列させてもらった。
哀しさも寂しさもあったけど、多分一番は悔し涙。だって彼はわたしの1歳年下なのに。
そして先日、彼がずっと続けてきた語り部の会の140回目に、友人と参加した。予想どおりたくさんの人がいた。そしてたくさんのマスコミ。たまに目前で起こるマスコミ同志の小競り合いに若干うんざりしながら、今まで彼が続けてきたことは綺麗ごとでもなんでもない。それを彼が不在の今これからも続けて行くことは並大抵のことじゃないだろう。わたしにできることをしなくちゃな、と考えた。
そのあと友人たちと献杯し、わたしたちはなんとなく、自分たちの喪の仕事をだいぶ終えつつあるのだな、という感じがしている。

劇場は、暗いのににぎやかな、そんなファンキーな場所だから。本番中とかは洋次郎さんが居ても誰も気づかないから大丈夫(笑)客席とは言わず、舞台袖でもオペ席でも、好きなところでのびのび観てください。今年は洋次郎さんが前にすげー面白いって言ってくれた劇団もまた広島公演やるんですよ。だから面白そうって思ったら、遠慮なく観に来てください。いつでも遊びにきてください。