2014年3月31日月曜日

両想いは奇跡。

伝わらないかもしれない、という不安のなかで想いを伝えていくのは果てしなく絶望してしまいそうになる。
そういう部分が、わたしの中で表現と恋と育成は似ている。

「伝わってますかねー?これ判ってもらえてますかねー?こういう意味でこういう気持ちなんですけどーだいじょうぶですかねー?」と、いちいち説明出来たらどんだけ楽だろう。
ううん、いちいち説明したって、相手の「うんわかった」は、こっちの「ソレ」とはずれている事だって全然ありうるわけで。

でもできればそんな説明に頼らず、伝えたい。
だって本当に伝えたいことは説明できるものじゃないもの。

両想いになるためには、受け取り側に「受け取ってみよう」という興味が生じ、運よく受け渡しが成功したうえで、そこからのったりそったりしながら関係が構築されてはじめて両想いになる。
伝わらないのはつらいから、もう「伝えよう」ということをやめてしまうという選択肢もある。ひたすら独りよがりに語ることである程度満たされる気持ちもあるかも。「ダメならダメでいーわ」と開き直るのもアリかも。
遠くの木の陰から、ネットの陰からしっとり見つめる。
そんな片想いは楽しい。切ないけどその切なささえも楽しめるから、片想いなら。
これを両想いにしようとすると、傷つくかもという覚悟で自分を打ち出していかないといけない。「あーあのセリフはしっぱいだったかも」「あーあのメールは失敗だったかも」、掘れば掘るほどザクザク出てくる不安にびくびくしながら。
それでもチャレンジしてしまうのは、なにか伝わった時の、なにものにも代えがたい奇跡のような幸福感を少しでも感じてしまった時。感動してしまった時。やっぱり受け取ってほしい!って欲がむくむくうまれてしまう。
しゃかりきにがんばってしまう。
通じることって、本当に奇跡だと思う。

でも、この道を選んだからには、なるべくたくさんそういう演劇に出逢いたい。
せっかくであえた活動を共にする仲間とは、ぶつかりながらも伝えたり受け取ったりして行きたい。
客席と両想いになるのは難しい。叱るってことと怒るってことが違うことの理解の共有もすごく難しい。
でも「伝わらないなら伝わらないでいいや」とか「伝わらなかったらいけないんで、全部説明します」を、できるだけ選択したくない。
不安と不安と不安に襲われて、息も絶え絶えになる。
たまにわーーっと八つ当たりしたり、がぶがぶお酒をのんだり、ぶつぶつブログでつぶやいて誤魔化したりしながら折り合いをつけていく。

あー、めんどくさい。
恋ってほんとうにめんどくさい。