2015年11月17日火曜日

INAGO-DX『逃げる』観劇記録

作演の武田氏とは、2年くらい前からしっかりと芝居の話をするようになっているので、あえてその事も踏まえて書く。
好き嫌いが別れる芝居だった。
こう書くと月並みだが、INAGO-DXはここ最近センスの光る短編が続いていた分、本公演はわたし自身は残念に感じる部分の方が多かった。
観ながら「なにがそう思わせるのだろう?」と考えた。
ひとつに伏線の張り方が甘い事のではないか、ということに在る。
武田氏の言葉遊びは非常に巧みで秀逸なのだが、その言葉遊びに筆が振れ過ぎて、脚本そのもののデッサンの線がぶれているように思えたのだ。
そのせいか、今回のタイトル「逃げる」という題材に対し、作家の意図する本意を汲み取るまで作品に入り込むことが出来なかった。
様々なシチュエーションで人間模様が描かれるのだが、どれも散漫でストーリに入れない。シーンとしてのインパクトはあってもどういう話なのかは心に残らなかった。
INAGO-DXの長所であるテンポの良さは素晴らしかったし、武田氏の場数のなせる業で音のきっかけなどはかなり心地よく組み込まれていた。
しかし、肝心のテーマに即す部分は小手先の笑いに害されてしまっている気がした。

INAGO-DXの「笑い」はこの団体の特徴であり、長所だと思っている。
「笑い」というものは客席に対して非常に有効で、観客を楽しませるのには重要なエッセンスだ。わたしも笑える作品は嫌いではない。
だが今回の作品はその笑いへのアプローチがどれも表面的で、20分のワンセンテンスなら楽しめるけれど、物語にすると長所であるはずの笑いが邪魔をして重要なことが描ききれていない気がした。
また、それぞれの物語も切れ切れで、先に書いたが伏線が読み取れず、これならばつなげずにオムニバスで上演した方がいいんじゃないかと思った。
作品内には家庭のことから政治的なことまで、現代の多くの問題が要素として出てきた。
それについて役者が朗々と、上手にセリフをしゃべるのだけれど、なぜか何も伝わってこない。
どれも、決して軽くはない問題提起だ。
仮にそれらを友人に相談されれば、きっと真剣に考え、論じるであろう。だからこそ余計に引っかかった。
言葉は悪いが、取り上げ方が暴力的すぎ、描き方のディテールが雑に感じたのだ。
笑いの持つ暴力性に少し配慮が欠けていたのではないだろうか。
この芝居は、問題を回避する現代人のモラトリアムストーリーなのか、アンチアメリカビバニッポンの話なのか、いわゆる思考からの逃亡なのか。
タイトルから想像される答えはどれも安易すぎて、長編の芝居にするほどのことではなかった。
普段、武田氏と話している時間を考えると、彼がやりたいことはおおよそそうではないだろうと言う気がする分観ていて辛くなった。
大人たちに小学生を演じさせて同じセリフを全員が同時に発する群像劇のような方法も必要とは思わなかったし、群像劇で描ける効果はそこからは感じなかった。結果その手法を取ったことにどうしてもチープさのほうを感じざるを得なかった。
普段知っている顔の俳優がランドセルを背負ってうんことか言うと、可笑しいからお客さんは笑う。でも、果たしてそれが目的だったのだろうか?
主人公の成長の過程を描くなら多分違う方法でも良かったと思うし、大人に小学生を演じさせた事が物語の結末にそれほどまで効果があったとは思えなかったからだ。
魅力のある俳優も居たし、個性の光る演技もあった。
彼らの魅力がまだ十分に演出され切れていないと感じたのも、残念に思った一つだ。

コントとしてのエンターテイメントならば十分に成立している。
だから、エンターテイメントとして愉しむお客様には、あの時間は楽しめる作品であったことは間違いないと思う。
だからいい作品悪い作品というのは、一概に論じられるものではない。
客観なんて所詮主観の集まりでしかないのだから。
多分、わたしはその向こう側を観たいと思う方の人間だから、この作品では、武田氏が自身にとっての主観と客観の線をどこに以て臨んでいるかが判らず、引っかかったのだと思う。
あと、対面客席の理由も判りかねた。対面客席は客席を巻き込む様式なので、笑いを重視した作品(ストーリーや時間軸に観客を引っ張らない作品)の場合、向こう側に見えるお客さんが笑ったり笑わなかったりしていることが非常に気になってしまうからだ。
「笑いを以て描く」ということを、武田氏にはもっと追究してほしいし、そうすることでINAGO-DXの世界をもっと広く、そして深く創り上げてほしいと思った。