2007年、青年団プロジェクト「隣にいてもひとり~広島編~」のオーディションに合格し、わたしはこの舞台を最後に役者を辞めたのですが、同じくオーディションに合格し、この舞台をきっかけに役者を志した坂田光平と今も一緒に活動しています。可笑しな話だ(笑)
稽古の合間に、当時作っていた演劇情報誌に掲載させていただくため、オリザさんにインタビューさせていただいた時の記事です。聞き手(わたし)の質問がアホ過ぎる部分に関しては29歳の自分の現実と受け止めています・・・
色々もがいていた時期でした。オリザさんに聞きながら、色々励みになったのを覚えています。
そして12年の時を経て、新たな形でご一緒させていただける事になったことは素直にうれしいことです。
<演劇×福祉×医療> 連携から生まれる新しい現場 ~演劇でつくる人と人とのアクセシビリティ~
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2007.12.18 Tuesday
author:「まど。」管理人
平田オリザ氏インタビュー
広島演劇協会広報誌「座々」のNo26号を発行しました。
こちら協会のサイトにて定期購読も受け付けています。
今号でわたくしは、平田オリザ氏へのインタビュー記事を企画担当しました。
座々掲載・平田オリザ氏インタビュー
2007年11月2日~12日まで山小屋シアターで上演された青年団プロジェクト「隣にいても一人~広島編~」は観客動員850人という快挙を成し遂げ、大盛況の中、幕を閉じました。5月に出演者オーディションが行われ、約70人のオーディション参加者から6名が選抜され、青年団プロジェクトは起動しました。
それから約半年をかけ、プレ稽古をもとにした自主稽古、そして集中した本稽古で一気に形を整え息を吹き込んでいく、という長期プランで作品は創り上げられました。
そんな中10月半ばからは広島に滞在してA、B2チームの演出をこなされていた平田オリザ氏に、独占インタビューに答えていただきました。
―今回半年というスパンで広島に関わられ、実際に滞在し、創作を行われる中で感じられた広島の演劇人、演劇事情、環境への気付きなどはありますか?
厳しい言い方を許してもらえれば、全体的に欲望が足りない感じがします。
成功するための戦略と言ってもいいんだけど。
自分が演劇をしていく上で何をどうしたいのか、そのためにはどうすればいいのかを本気で考える力が、少し欠けている気がしますね。
以前、福岡で、なぜ北九州で泊君(注1)だけがあんなに成功したのか、と尋ねられたことがあります。それは、彼が成功への欲望がずば抜けていたからです。他に理由はない。
欲望も才能のうちなんですね。
―つまり、欲望=才能を持った人間が少ない、ということですね?
それは分からない。どこかに隠れているかもしれないし、自分の才能に気がついていないだけかもしれない。
ただ、その「才能」というのは、行政などが意図的に育てたり作り出したりすることは出来ません。特に、そういう事を考えたり意識したりするのはやはり演出家なんで、いまの広島の問題として考えるなら、「演出家の不在」という事柄が大きいと思います。
ただし、それを育てることが出来ない以上、出てくるのを根気よく待つしかない。
そしてその才能が現れたとき彼らが活動できる基盤を、その地域に整えておかなければなりません。それが地域の文化行政の仕事です。
―オーディションなどを経て、広島の役者に対してアドバイスはありますか?
同じですね。欲望がちょっと薄いんじゃないかと思います。
―この度このプロジェクトを全国各地で行われていらっしゃいますが、他地域の役者と広島の役者と違う点などはありましたか?
特にないですね。どこも結構同じ感じです。
でも、この「同じ感じ」ということころに広島の人は問題意識を持たなきゃいけないと思います。今回のプロジェクトの中では広島は一番大きな都市なのですから。
広島と同規模の都市に比べると、演劇人の「層の薄さ」に危機感を持たなければならないでしょうね。オーディションに70人集まったと言って喜んでいてはダメでしょう。同じ企画を仙台や北九州でやれば200人近くは集まるでしょう。
たとえば、現に、広島の高校演劇の実績は、全国的にも決して低いものではありません。それなのにこの現状ということは、まさに活動の受け皿がないことの現われでしょう。
そのことを、もう少し深刻に考えなければならないと思います。
―今回のプロジェクトで困難だった点と良かった点を教えて下さい
困難だった点は特にないですね。愉しくやっています。芝居はそもそも愉しくやるもんだから(笑)基本的に芝居をやってて困難なことなんてないですよ。
良かった点はやっぱり山小屋(山小屋シアター)で出来たということでしょう。
他の地域では公共ホールとか、もっと大きな所でやったりしているけれど、僕はもともと小劇場の出身だから、アットホームな感じというか、このくらいの空間が一番好きだし落ち着きます。
すでに今この空間(山小屋シアター)は広島の人々に愛され始めているのだろうけれど、もっともっと愛されるスペースになっていって欲しいし、そうなっていくべきだと思います。そのためのお手伝いなら、なんでもしたいと思っています。
―演劇が社会と繋がっていくための方法、必要性などの観点において先進的な考えをお持ちのことで知られる平田さんですが、まだまだ地方の演劇人にはその意識が薄いのが現実です。もっと一人一人がその意識を持っていくためにはどうすればいいとお考えですか?
それにはやっぱりその地域に演出家を出さないといけないでしょうね。そういうのを引っ張っていくのは、やっぱり演出家ですから。
一人一人が、というのは難しいんですね。みんなで頑張ろうとかって言う問題ではない。
演出家が、「自分が日本の演劇史を変えていくんだ」くらいの気持ちを持たないと。
―地方で演劇をしていると自ずと「地域性」というのが声高に言われがちですが、この点についてお考えをお聞かせください
地域性というのは後から付いてくるものなんですよ。
例えばプロ野球やサッカーのチームが広島にもありますね。彼らは別に「広島らしい野球」や「広島らしいサッカー」をしようとしているわけではないでしょう? 勝てばいい。負けてもいいから広島らしい野球をやってくれとか、監督は広島出身じゃなきゃダメだとか、そんなファンはいないでしょう。
演劇だって同じことです。どこでやったって本質は同じです。とにかく質の高い作品を作ること。
例えば、青年団は去年「別れの唄」という作品をフランスで、向こうの国立演劇センターと共同制作しました。これはティヨンビルという非常に小さな街の国立劇場です。
しかし、僕は創る上で「ティヨンビルらしさ」なんてものを意識して創ったわけでもなんでもありませんし、そんな依頼も受けていません。
その作品は非常に高い評価を得る事が出来、再演も決まって、結果としてティヨンビルという小さな街の大きな財産になりました。
僕らは芸術活動をしているわけであって、村おこしをしているのではありません。
結果としてその地域に拠ったものになることはあったとしても、地域性から創造するわけではありません。
―では「広島らしい芝居をつくろう」とか「広島らしさを打ち出していこう」というのは?
そんなのは有り得ないですよね。そもそも出発点を間違えています。
―演劇をやっていて一番愉しいときはどんなときですか?
基本的にいつも愉しいですよ(笑)
ただ僕は、演出家か劇作家かと聞かれると劇作家なので、作家として愉しいときはやっぱり戯曲が書きあがったときですね。
―ではもし演出家、劇作家になっていなかったら何になっていらっしゃいましたか?
詐欺師かな(笑)
―詐欺師、ですか?(笑)それはなぜでしょう?
よくウソつきって言われるから(笑)
その点いいですよね、劇作家って言うのは。ウソをついて人に喜ばれる仕事ですから(笑)
―最後に平田さんにとってプロフェッショナル、とは何でしょうか
命がけでやる、って事ですかね。
―今でもそういうおつもりで?
そりゃそうですよ(笑)
今でも、もし仮に、次に書く作品が歴史に残る名作になるという約束がもらえるなら、指一本くらいはなくなってもいいと思う。本気でそう思うんですよ。もしそんな契約を悪魔に持ち掛けられたら受けてしまうと思う(笑)。命まで取られるのはちょっと困るけど。
―役者ならば、どうでしょう?
そうですね、役者に置き換えるなら命がけで舞台に立つ、って事だけど、それをいつもいつもっていうのはそんなに易しいことじゃないですよね。
でも、そこかな、敢えて言うなら。つまり、一瞬ならってできるっていうのじゃダメってことですね。プロって言うのは瞬発力ではなく持続力なんです、要は。継続して命がけって言うのは、ちょっと難しいからね。
―つまりそれで食えてるとかじゃなくて?
そんなの全然関係ないよ(笑)僕たちは芸術をやっているわけですから。芸術って言うのは100年のスパンで考えるものです。
あのベケット(注2)の「ゴドーを待ちながら」でさえ、アメリカ公演の初演は、一幕が終わって観客がみんな帰っちゃったんだから。
その中で最後まで残った客が2人だけいて、その2人はサローヤン(注3)とテネシー・ウィリアムズ(注4)だったっていうんだけどね。
つまり、今現在がどうこうじゃない、ってことですよ。お金は、食える分だけ、どっかから持ってくればいいんです。
―ありがとうございました。
インタビュー 岩﨑きえ(本公演出演者、無色透明)
注1
泊篤志さん。北九州を拠点に活躍する劇作家、演出家。劇団「飛ぶ劇場」代表であり、「北九州芸術劇場」学芸係ディレクターでもある。来年二月に広島公演が決定している。
注2
サミュエル・ベケット(1906~1989)
アイルランド出身、フランスの劇作家。不条理演劇を代表する作家の一人。また、ウジェーヌ・イヨネスコと同様に、20世紀フランスを代表する劇作家としても知られている。1969年にはノーベル文学賞を受賞。代表作「ゴドーを待ちながら」は数々の作家に影響を与えた不条理劇の傑作として知られる。
注3
ウィリアム・サローヤン(1908~1981)
アルメニヤ系移民の子としてアメリカに生まれる。代表作に「わが名はアラム」「パパ・ユアクレイジー」などがある。ユーモアとペーソスに溢れた清澄な文章で庶民の感情の機微を書き続けた作家。
注3
テネシー・ウィリアムズ(1911~1983)
アメリカの劇作家。複雑な家庭環境に育ち、彼の作品の多くは家族への抗議・葛藤を描いた自叙伝である、とも言われる。代表作に「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」(1948年ピュリッツアー賞受賞)「熱いトタン屋根の猫」(1955年ピュリッツアー賞受賞)がある。